Works

Anders & Poncia(アンダース&ポンシア)

tradewinds

ピーター・アンドレリオ&ビンセント・ポンシアJrが本名のアンダース&ポンシアは1958年にDooWopグループVidelsでデビューして、スマッシュヒットの「Mr.Lonely」や「Now That Summer Is Here」など良曲を残していた。その後フィル・スペクターと仕事をしプロデューサーとしてのノウハウを学び、65年に二人は「New York A Lonely Town」を制作、元Videlsのノーマン・マルザーノとトレイド・ウインズ名義で発表し全米32位まで上がるヒットを記録。66年にはイノセンスを結成し珠玉の名曲満載のアルバムを制作した。以降はBobby BloomCrittersらに曲を提供し、彼らの名はソフトロック史に残る物である。


Bob Crewe(ボブ・クリュー)

ニュージャージ出身のボブ・クリューは、フィラデルフィアに移住し、様々なレーベルでソングライターとして活動し、色々なアーティストに曲を提供。その中でフォーシーズンズが大爆発しボブ・クリューも注目を浴びる。67年にインスト・グループ「ボブ・クリュー・ジェネレイション(B.C.G)」を結成して「Music To Watch Girls By」を全米15位まで上がるヒットを記録し、自らヴォーカルを取る曲も発表しアルバムも出している。


Carter & Lewis(カーター&ルイス)

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ジョン・カーターとケン・ルイスは61年にカーター=ルイス&ザ・サザナーズとしてデビューしている。それと併用してハーマンズ・ハーミッツなど他アーティストにも作品を提供していた。64年にアイヴー・リーグを結成し、「Funny How Love Can Be」「Tossing And Turning」など大ヒットを飛ばし、カーター=ルイスの作品は更に脚光を浴びる。その後フラワー・ポットメンの永遠の名作「Let's Go To San Francisco」などを制作し、70年初頭まで活躍した。


Cook & Greenaway(クック&グリーナウェイ)

Greenaway

ケストレルズというトニー・バロウズも居たグループで知り合ったクックとグリーナウェイ。やがてソングライターとしてコンビを組みながら、デビット&ジョナサンの名で「Michelle」をヒットさせている。その後Gary Lewis & The Playboysの「Green Grass」,Flower Pot Men & White Plains「In A Moment Of Madness」「My Baby Loves Lovin'」や全英1位になったNew Seekersの「I'd Like To Teach The World To Sing」などポップでキャッチーな作品を残す。トニー・マコウレイと供にイギリスを代表するソングライターチームである。


Curt Boettcher(カート・ベッチャー)

プロデューサー兼ソングライターとして多くのミュージシャンのレコードに携わってきたカート・ベッチャー。彼のスタートはゴールドブライアーズというフォークグループ。ここで只のフォークで終わらない男女混成の見事なコーラスを披露し、後に「コーラスの天才」といわれる片鱗を見せた。66年にアソシエイションのプロデューサーに付き、多様なコーラス・ワーク&ヴォーカルアレンジで大ヒットを生む。その後ボールルームを結成し、ゲイリー・アッシャーと知り合い、シングル1枚だけのリリースだったが、ボールルームの残された録音にアッシャーが手を加えサジタリアスの「Present Tense」として発表した。ボールルームがやがてミレニウムに昇華し、ソフトロックの至宝「ビギン」を生んだ。


Gary Zekley(ゲイリー・ゼクリー)

ゲイリー・ゼクリーが通っていたLAの高校にはブルース・ジョンストンやジャン&ディーン、Dick&Dee Deeなど後の大ミュージシャンが在籍していた。63年にDooWopグループのMatadorsのシングル曲で始めて作曲し、64年にソロ・シングルも発表している。フィル・スペクターとブライアン・ウィルソンに憧れていたゼクリーは大ヒットはなかったもののYellow Balloon,Fun & Games,Cliqueなどの作品を通して暖かいメロディを届けて彼らに劣ること無い素晴らしい作品を残している。


Jerry Ross(ジェリー・ロス)

1936年フィラデルフィア生まれのJerry Ross。黒人音楽に倒置しながら音楽を学び、地元の放送局に入社。そこで人脈を広げ61年に自己レーベルを立ち上げる。その後、白人マーケットを主眼に置いたポップソウルを追求し、ボビー・ヘブ、ジェリー・バトラー、ジェイ&ザ・テクニクスなど黒人歌手をポップチャートに送り込んだ。


Jim Webb(ジム・ウエッブ)

ジム・ウエッブは66年に「By The Time I Get To Phoenix」(恋はフェニックス)を作り、このデモを聴いたジョニー・リバースに認められ、自身が設立したレーベルにアレンジャーとして迎えられ、同レーベルから売り出しを図ろうとしていたフィフス・ディメンションに曲を提供し、アルバム「Up,Up And Away」(ビートでジャンプ)が67年グラミー5部門を獲得し、ジム・ウエッブは21歳にして成功を収める。また「By The Time I Get To Phoenix」もグレン・キャンベルが歌いグラミー賞を獲得。彼の作品は多くのアーティストにカヴァーされ、70年代に入ると彼自身も自ら歌うアルバムも制作していた。


Teddy Randazzo(テディ・ランダッツオ)

イタロアメリカンであるテディ・ランダッツオはDooWopグループ「Three Chuckles」のも居た人物。ソロになったがパッとせず作曲家兼プロデューサーに転身、独創的な美しいメロディや高度なコード進行と複雑なハーモニーでLittle Anthony & The Imperials,Royalettesなど黒人アーティストを洗練されたハーモニーグループに作り変えた。


Tony Hatch(トニー・ハッチ)

1939年生まれでイギリスのバカラックと言われるTony Hatch。最大の成功はPetura Clarkで「Down Town」を65年全米1位に送り込んでいる。そして後に妻となるJackie Trentとコンビを結成、「It's Dark Out Side」が全英1位を記録。以降、コンビ、ソロで仕事をし、自ら歌い更に他アーティストに曲を提供して人気ソングライターとして地位を固める。


Tony Macaulay(トニー・マコウレイ)

Pyeのプロデューサー・ソングライターとして相棒のジョン・マクレオドと共に67年にFoundationsの「Baby Now That I've Found You」を全英1位、全米11位を始め、Paper Dolls,Pickettywitch,Marmalade,Flying Machineなどを担当し次々大ヒットを飛ばす。Pye専属を離れてからEdison Lighthouseの「Love Grows」を世界的ヒット生み,さらにHolliesNew Seekersらに曲を提供し次々とヒットを飛ばし、70年代後半まで活躍した。実に全英TOP20ヒットを38曲送り出した彼の仕事は絶対聴くべき最重要の物。


Tony Rivers(トニー・リバース)

トニー・リヴァース&キャスタウェイズとして62年にデビューしてシングル8枚出した後、心機一転「Harmony Grass」と名を変え、伝説のアルバム「This Is Us」を制作した。トニー・リバース自ら70年に脱退し、71年にレコード会社のプロデューサーとして再出発し、クリフ・リチャードのアレンジャーに起用されながら、あくまでもハーモニー・ミュージックを貫き、ブリティッシュ・ビーチ・ミュージックと呼ばれるものを作った。


Rod Mcbrien(ロッド・マクブライエン)

ロッド・マクブライエンは1948年生まれのNY出身。イノセンスやトレイドウインズ、ホリーズなど担当したエンジニア。68年にSalt Water Taffyのメンバーとしてソフトロックの名盤「Finders Keepers」を発表し、ほとんどを作曲・プロデュースを担当、様々な曲調を書き分ける作曲とプロデューサーの腕前を見せつけた。70年にNBCのTV番組の中で「Goggles」のメンバーとして出演、71年に同名のアルバム「The Goggles」を制作発表した。


Roger Nichols(ロジャー・ニコルス)

Roger Nichols Trioで下積みしながら68年にRoger Nichols & The Small Circle Of Friendsに名を変えデビュー。今でこそソフトロックの最高峰と言われる彼らは当時のチャートに無視され不成功に終わった。その後ポール・ウィリアムスと出会い「We've Only Just Begun」を制作し、これをカーペンターズが歌い70年全米2位の大ヒットを呼び、コンポーサーとして認められようになった。以降は数々の名曲を生み、様々なアーティストが取り上げ、70年代後半まで人気コンポーサーとして活躍した。


参考文献 & オススメ書籍

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